matagorou’s blog 尾崎豊 自由に生きられるかそして感動を得られるか

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大阪の陣 真田昌幸

戦国時代の最終戦争 天下人VS抵抗者 関が原の戦いから十数年経った頃天下の行く末を見守りすでに幕府を開いた徳川家康の最後の敵が豊臣家でした。

関ヶ原以前豊臣家は堺などの港を取り仕切り巨万の富を得ていたが関ヶ原の合戦後大阪六十余万石を治める大名に成り下がってしまった。

しかし天下の名城、西の大要塞ともいえるべき大坂城は建設当時のまま残っていた。
それが徳川家の脅威であった。 

「あの城を落城させることができるのか?」
疑問はやがて不安へと変わってゆく。

この当時すでに元亀、天正といった戦国時代の全盛期を知るものは少なくなった時代である。
それでも最後に家康は自分が生きているうちに豊臣家を滅亡させるか大坂城から別の土地に転封したかった。まあ当時ほとんどの土地の持ち主が決まっていた時代に転封も難しかったと思うが。

この大坂の陣で当時は無名であったが後々までその名前が語り継がれるようになった者が真田幸村(本名は信繁といい幸村は後につけられた名前です。)です。

幸村は牢人でしたが豊臣家が助力を願い勝利した時には信州一国五十万石を差し上げるといわれていました。

しかしこの戦いの豊臣方の総大将は豊臣秀頼でしたが戦の采配がわからない秀頼は家老の大野治長に一任していました。

大野治長は篭城しても大丈夫な大坂城に篭り敵諸将の寝返りを待つなどというふざけた理論を言いました

牢人衆の意見は野戦でした。

大坂城の周り四方に多くの大小砦をつくって防戦するという策でしたが大野治長に退けられてしまいます。

真田幸村後藤又兵衛などが猛然に野戦主張をしますが後藤又兵衛は別として当時の真田幸村知名度は低く発言権も大きななかったのでしょう。

幸村の父昌幸は豊臣、徳川断交の際にはすぐさま大坂城に入場しようと考えていたが。
大坂の陣が起こる前に昌幸は亡くなってしまった。

この昌幸と幸村いわゆる真田父子は過去に二回徳川の大軍を劣勢の立場の中破ったことがある。
一度は上田合戦とよばれる徳川家の信州侵略作戦の際に居城の上田城に篭り二千の兵で謀略、強襲などを
行い七千の徳川勢を破った。

二度目は関ヶ原の合戦の際に中山道を通る徳川勢の別働隊徳川秀忠率いる三万七千を兵を二千で破った。
真田が成したことは大きいと僕は見ています。

秀忠はこの第二次上田合戦で時間を費やしついに天下分け目の合戦の関ヶ原には間に合わなかったからです。

家康の作戦としては豊臣恩顧の大名を率いてはいるがあくまでの後詰めで関ヶ原では徳川家に仕える譜代の家臣で戦う予定でありましたけど片方の秀忠隊が間に合わなかったため豊臣恩顧の大名と共に戦わざるをえなかったのでしょう。

関ヶ原の合戦後の論功行賞の際にも豊臣恩顧の大名の加増を余儀なくされました。


余談はここまでで昌幸がもし大坂の陣に参加したら大坂方は勝利できたか?
ということを語ってほしいです。