matagorou’s blog 尾崎豊 自由に生きられるかそして感動を得られるか

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2013-07-01から1ヶ月間の記事一覧

直行

1987年 8月3日 イベンターの車で大阪球場まで直行した。 時間が早かったためか、道のりはスムーズに進んだが、気温はあがるばかりで暑い日であった。 会場に着くとそこには大勢のファンたちがすでにつめかけていた。 彼は車を降りると、イベンターたち…

3日の朝

1987年 8月3日 尾崎は起きた。 今日は大阪球場でのライブであった。 移動は飛行機で大阪へ・・ 羽田空港へ繁美と2人で向かおうとしたがタクシーを中々捕まえられず、羽田線の渋滞のせいで、飛行機には乗り遅れてしまった。 しかしその光景がまるで見…

一緒に来ないか

「ねえねえ、今度ある大阪球場のステージ見にきてよ」 と尾崎は繁美を誘ったという。 大阪球場でのライブは尾崎不在時のフィルムコンサート、625DAYSでの一部が当時でも公開されておりそのライブ自体が代々木体育館などと同じように伝説、神格化されていたの…

カウチポテト

尾崎は繁美と2人家にいる。 カウチポテトという話は夫人の話に出てくるものだ。 アメリカから来たこの言葉はおしゃれな感じでとても流行っていたというが、いざ調べてみれば、 1987~88年当時の日本ではこの文化が入ってきたばかりであるが栄えていた…

昭和史

昭和という時代は長い その時代というのは身近であるのにあまり知らない ということで、著名な半藤さんの本でもといった感じの軽い感覚で買ってきた 視点などはいざ抜きにして読んでみます

生きてます

生きてますよー 待ったりしすぎたのか 容赦なくいくよ

帰京

次の大阪球場までのライブまで1週間のオフがあり、彼は旅の疲れを自宅で癒していた。 大阪でのライブを終えると、出演予定がされている広島平和コンサートに彼は出るために再び広島へと行く。 広島には彼以外にも当節の売れっ子ミュージシャンが顔をそろえ…

松山市民会館

1987年 7月26日 松山市民会館 会館にはいると、ホールに組まれたステージを見ながら尾崎は客席を歩く。 いつも客席からの自分を見つめることを忘れない人間であったという。 リハーサルは順調に進んで、彼は楽屋に戻る。 定刻通りの開場時間で、会館の中には…

松山

1987年 7月25日 尾崎は四国、松山にきていた 2年前四国にきたときは船を用いた 余談なからまだ瀬戸大橋は完成しておらず完成、開通するまでにはまだ数ヶ月を要した。 以前訪れたときはメンバーたちと共に道後温泉に赴いたという。 恐らくこの時も共に…

休み

今日はお休みー でも雨なんだよね なんか布団でも干そうと思っていたのに残念やわw 毎日あんなに晴れてるのに今日に限ってこれかよw

徳山市民会館

1987年 7月24日 徳山市民会館 尾崎は山口県にきていた。 徳山市民会館でのライブは十代のLTA TOUR以来だった。 今日のライブでツアーでは8本目のライブを終える。 ライブが始まると、新曲が早速観客の前に提供された。 しかしそれは彼らがまだ知らない尾崎…

倉敷市民会館

1987年 7月23日 倉敷市民会館 尾崎は岡山県にきていた。 西へと歩を進めてきた尾崎は今日もステージに立つ。 「街路樹」が1曲目に流れる。 余談ながらこの「街路樹」は後に1曲目から1stステージを終えるための最後の曲へと変更されていくがそれはまだ後の…

HAPPY

前回の「負け犬」つながりで藤沢さんが書いたRED WARRIORSの本のことを書いておこう。 RED WARRIORSはこのブログの題材でもある尾崎とは中々縁があったりする。 そのことは後に触れるとして、前回紹介した「負け犬」は内容こそハウンドドッグのデビューから…

移動

1987年 7月22日 尾崎は広島から岡山県倉敷までの移動日であった。 1日のオフも兼ねた尾崎はホテルで休む。 ツアーは続く。 西国でのライブは島根と広島を終えた。 残りは倉敷、山口、四国松山とライブが連なっていく。 西のツアーを終えれば彼にはま…

広島郵便貯金会館

1987年 7月21日 広島郵便貯金会館 力強いピアノが会場を包んでいた。 「街路樹」「LIFE」と続く、ナンバーに観客は合わない拍手を重ねるばかりであった。 ロックナンバーがそこから2曲「DRIVING ALL NIGHT」、「BOW!」と続く。 広島を訪れるのは十代のツ…

負け犬

古臭い本のことを書こうと思ったわけではないのだけど、やはりそうなりそう。 タイトルは「負け犬」ハウンドドッグの伝説というのは副題に過ぎないのだろうね。 この本は尾崎をよく取材してきた藤沢さんが書いた、ハウンドドッグの物語。 知らない人のために…

島根県民会館

1987年 7月20日 島根県民会館 約2年ぶり・・尾崎はこの会館にきていた。 十代のツアーから訪れるこの地、最後に訪れたのも夏であった。 西国1本目のライブとしてこのライブは辺境地でも注目されていたであろう。 何度も書いているがツアー序盤の1…

夏の旅

1987年 7月20日 尾崎は再びツアーの途上にいる。 空港に着くと、イベンターの車でメンバーとともにライブ会場へと進む。 ホテルに運ぶ荷物は、スタッフ任せだ。 会館に着くと、用意された楽器を前に彼はリハーサルを始める。 日本に帰ってきてから踏む、…

仮定

彼は作品を作る。 曲を作って詩を書いて、伝えたいこと言葉を選んでメロディーにのせて歌う。 シンガーソングライターだ。 ボーカリストであるのは事実であったが彼はミュージシャンよりアーティストでありたいと願っていたのであろう。 ROCKだ! と言ってノ…

作品の道

ツアーから帰ると彼はまた、作品を作るためにスタジオにこもる。 見切り発車に近いツアーでも、新アルバムを作っている。 次のツアーは西日本から再び始まる。 彼はオーディエンスと会わない空白の時間を休みと仕事に用いる。 尾崎の夏は続く。

沼津市文化会館

1987年 7月16日 沼津市文化会館 翌日彼は沼津にいた 静岡県は大きい、このツアーでも静岡にだけでも3回は訪れている 沼津はそのうちの2回目になる。 ライブを終えると彼は東京に帰っていく 単調なツアーもまだ序盤。 次は西日本へと彼は旅にでる

静岡市民文化会館

1987年 7月15日 静岡市民文化会館 1週間空けて尾崎は静岡県にきていた。 静岡県だけでもこのツアーでは3箇所組まれていた。 その1発目が静岡県民文化会館でのライブであった。 夕方5時半に開場が始まると列をなしていた、行列は続々と会場の中に…

また旅

1987年 7月15日 静岡 静岡に尾崎はいく レコーディングスタジオを出ると彼は新幹線に乗って、西に進む。 音楽からは離れられない。 スタジオでレコーディング、またはメンバーたちとツアーリハーサルを重ねる。 仕事と家の往復を重ねる、生活が彼にの…

迷宮

作品作りの迷宮に尾崎はいた。 十代の時には十代で3枚アルバムを出すという目標があった。 それからNYで時間を過ごして1年。 創作の時間もあったが尾崎はNYでの退廃的な生活を経て歌うものをわからずにいた。 目標もないままビジネスを重視したことに尾崎…

10月にむけて

1987年 7月 ツアーの合間にスタジオに出かけては、ものつくりに励む尾崎。 これまでツアーの合間にレコーディングは行っても、曲自体は完成に近く手直しをするような手軽さで歌入れを行ってきていた。 しかし今となってはイチから作っている最中でもある。 …

よー

久々の日記更新 毎日暑いね 37度とかやばすぎて言葉も失うくらいさ 冷房がなければこれは死ぬわ

NOT TEENAGE

尾崎は21歳になっていた。 20歳になったばかりの1年を彼はNYで過ごした。 21歳になる誕生日をNYで迎えたことは以前述べた。 その彼がまたステージに立って見たのは熱狂するオーディエンスのほとんどが十代であったことだ。 21歳になった尾崎は11…

変わった尾崎

十代の時と変わった尾崎。 パフォーマンスの激しさは変わらないが声に関してはブランクがあるとしても衰えを感じさせるものであった。 寝転んで歌うことが多くなったのも事 はそ実である。 NYで覚えたドラッグの後遺症とも言える 後遺症てはなくこの頃にも継…

それぞれ

1987年 7月 ここで目線を尾崎以外のマザーアーティストに向けてみたいと思う。 マザーにはソロミュージシャンがあまりいなかった。 ほとんどはバンドであり、そのバンドの売り出し方は1年間のほとんどをコンサートツアーで埋めてしまうものであった。…

横須賀市民会館

1987年 7月8日 横須賀市民会館 ライブには繁実が見に来ていた オープニングの「街路樹」でステージは始まった。 たまにしゃべるMCは観客を引き離していくような感じさえある。 中盤からはロックンロールナンバーが続いていく。 とびはね、ピアノにのぼっては…