1988年 11月23日 大磯
さて窯入れ式といっても格別に神事があるわけでもなく工房の中で一番広い業場テーブルが並べられ白いクロスを覆った上に郷土料理が思い皆席についた。
又造氏の簡単な挨拶のあと哲也氏も短く挨拶し乾杯という流れになった。
豊は又造氏にビールをついでしばらく話をしたという。
残念ながらこのとき2人がどのような話をしたのか定かではない・・・が
「創るということは、素材を元の状態に戻すことだと僕は考えているんです。花崗岩が長い年月をかけて風化し泥になる。その泥を陶土として再び焼き固め、また新しい固体に復元させる。だから同じ泥でももともと良質の岩石ではなかったものは美しい陶器にはなり得ない。
また私は絵を描くので作品にも装飾として用いるが陶芸家としては絵が先か造形そのものが先か、むつかしいところですね」
と豊の死後哲也氏が健一氏に語った言葉がある。
おそらくこんな芸術論ではないかと推論されている。
17時過ぎ哲也氏が焼いた湯のみセットを豊、尾崎家にそれぞれ引き出物としてもらい帰路についた。
午後7時頃家には着くと往復とも運転した豊は早々と2階にあがって眠りについたという。
健一氏はこの3年後には妻絹江氏そして次男豊が慌しく世を去るとは思ってもいなかったと語っている。
余談ながら1992年8月27日豊死後に健一氏は再びまたこの大磯の地を訪れた。
4月30日・・護国寺での葬儀のあと豊のために壷を焼こうとその場に隣席していた哲也氏に言われたからである。
そしてお願いしたものが焼きあがったのが8月27日というわけである。
この日のために健一氏は豊のために作った挽歌がある。
父われの言うを守りてあ子若くロックの道を極めて逝きつ