matagorou’s blog 尾崎豊 自由に生きられるかそして感動を得られるか

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その母

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豊の母について書いておかねばならない、家族のことはとても重要である。
 
豊の母絹枝氏は旧姓を荒井といい、荒井絹枝氏は昭和5年10月24日生まれである。父の名は荒井庄右エ門、明治26年生まれ、母きよは明治30年生まれ。共に丹生川村の生まれである。
こうして豊の中には濃厚に丹生川村の血が流れているということになる。
 
丹生川村というのは岐阜県大野郡にかつてあった、2005年に高山市編入され岐阜県の北東に位置し、トマトの名産で知られる。
 
豊の母は、若くして戦死した長男の庄吉氏(享年19才)が豊そっくりだったと、豊を育てる間中、いつも亡き兄を偲
んでいた感があり、終戦直前、庄吉兄さんの戦死するまでの荒井家は平凡ながら幸せな家庭であったようだが、
ただ一人の長男を失った父の失意は大きく、脳卒中のため戦後の混乱期の中で慌しく他界した原因の一つともなっていたのではないかと推測する、享年55歳。
この時絹枝は市内のT高等女学校1年生であったが、姉たち3人がすでに嫁いでいたこともあり、級長などをやるほどの成績を惜しまれながら、経済的理由から中途退学した。
そしてあとを追うように昭和27年10月4日に母きよも他界、享年54歳。戸籍謄本には「同居の親族荒井絹枝届出」とある。絹枝氏22才のことであった。
 
父、他界後は、高山市内の林業組合などの事務員として勤務していた絹枝は、母きよの死後間もなく、公務員試験をうけ、愛知県の国立療養所大府荘に事務官として奉職することになる。そして昭和32年に私と結婚のため上京するまでの5年間ここに勤務した。
 
とまあ結婚するまでの過程を並べてみたが、戦時中の動乱に巻き込まれながらも懸命に生きてきたということにあるであろう、豊を生んだ話からは追々この項で触れていくのでここでは触れないでおく。