1987年 3月26日
尾崎の父、健一氏、母絹枝氏、そして次男の豊。
3人は四十区1500ccで遠出を始めた。
10時半に出発すると環状八号線の混雑のために2時間はかかったという。
東名高速にはいれば、一路東海道を西に進み半田へと進む。
岡崎ICで高速を下りて国道一号線に降り、「矢作口」から「岡崎半田線」という剣道に入れば道なりに一直線に進む。
東名高速にはいるまでの運転は父健一氏が、高速からは尾崎がしたという。
カーステレオにガンガンロックを鳴らしての運転は危なく車はかすかに蛇行する感じであったと健一氏はこのときのことを回想している。
3人が半田に着いたのは夕方であったという。
市内を流れる阿久比川にかかる東雲橋(しののめ)を渡るとき左手の河口あたりにキラリと夕日に光る海がみえた。
このときの印象を詠んだ詩を健一氏はその晩豊に示した。
わが生れし知多の海見ゆ 阿久比川流れの 果てに光る海見ゆ
というものであった。