早すぎた伝説を作成する行程は急ピッチで行われた編集であり、また時間もあまりなかったように思えた。
尾崎にとっての85年は自身にとって早かったか、遅く感じたのかは定かではないがその中でも最も新しい映像であった、代々木公演の映像を編集して用いられた。
が、既にメディアによって作られた「教祖」というような偶像に拍車をかけたかもしれないが、尾崎の人気というものをテレビを使って確かめる実験のようなものであったかもしれないと筆者は思う。
年内には活動をしない方針でいたプロダクションにとっても既に筋書きはあったのかわからないがこの尾崎人気を煽って不在であるが人気を絶やさない、燃やし続けることができるものは今ある尾崎の映像を用いて全国をまわることではないかと考えたのでないだろうか?
しかしこれは重要なことであり、事実尾崎不在の86年を駆け抜けたのが尾崎の残されたFILMであったのだから。