1986年 7月下旬
須藤氏の帰国が近づいた頃に、尾崎は2人で仕事のことについて話し合った。
これからいったい何を歌っていけばいいのか?
逃げるようにNYにきて、もうすぐ2ヶ月近くの時間が過ぎようとしているが尾崎は十代というものを終えてから二十代としてこれから生活者としての歌を作って歌っていくということについて後年から見れば捕らわれがちであったとも考えることができるが、十代の作品で作られた尾崎としてのイメージ像がある。
「卒業」や「十七歳の地図」の詩によることであることはわかっていたがそれはメディアによって曲の表面だけを見られた、一面からしか書かれていない尾崎のイメージにより尾崎は苦しんでいたのかもしれない。
そんなイメージを払拭することができる作品を作る必要性に駆られながらも、尾崎は歌う目標をさがしていた。
新しいものをさがすことも目標にNYにきていたが、日本で見ることがあまりないヤクの売人やジャンキーがいる程度で日本の池袋と似ている街で尾崎は暮らしている。
NYでレコーディングをするんだという雑談から生まれたような当初の希望はそのまま行われる方向で決まったが、尾崎の作品の完成を待つのみとなってしまった。
早ければ年内にもレコーディングを始めたいというのが2人の共通の目標になった。
NYで2人は少し前に進んだのかもしれない。