matagorou’s blog 尾崎豊 自由に生きられるかそして感動を得られるか

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5人

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1986年 7月下旬 NY ホテルキタノ白梅

「会いたい人っていったい誰なんですか?」

という尾崎の問いに須藤氏はすぐにわかるよと言って待ち合わせた部屋の障子を開けて入ると須藤氏は

「待たせてごめん」
と挨拶をすると部屋からは

「お、来たね久しぶり」

そう言い放ったのは浜田省吾氏であった。

尾崎は驚いたが浜田氏は久しぶりに会った尾崎を見るなり

「なんか痩せたね、相変わらず須藤くんにしぼらてるんじゃないの?」
という冗談を交えていたが、これには須藤氏も

「おい、人聞きが悪いな」

と首を傾げていたが、部屋には他の人間もいる。

ECHOESの辻仁成氏、ギタリストの水谷公生氏であったが2人は尾崎とはこのときに会うのが初対面で辻氏から先に続いて水谷氏が

「はじめまして、どうぞよろしく」

と挨拶するとそれにのまれれ尾崎も

「はい!よろしくお願いします」
と頭を下げた。

この日も熱燗とウニに天ぷらなどに舌鼓をうちつつ、音楽の話‘彼ら‘にとっては仕事の話に終始したという。
この部屋にいる、尾崎と須藤氏を除いた3人についていささか筆を進めておきたい。
浜田省吾氏は尾崎がMCでも述べている通り、影響をうけたミュージシャンとして名前を挙げている。

この時期の浜田氏は2枚組みとなった新アルバム「J.BOY」のミックス作業を行うためにアメリカにきており。アルバムの発売日と同時に1986年9月4日から開始されるコンサートツアー「ON THE ROAD86
Im a J.BOY」のリハーサルや準備に追われていた時期でもあった。

ECHOESの辻氏はバンドのデビューアルバムとなった「WELCOME TO THE LOST CHILD CLUB」を須藤氏がプロデュースしていた関係で須藤氏と関係があり、NYにきていた。

水谷氏もギタリスト、アレンジャー、として活躍している方がこの時期には俗に呼ばれる浜田チームの下で仕事をし始めたばかりであった。

話は尾崎の仕事の話になると、NYでレコーディングをする予定の話になった。
尾崎は

「はいわがまま通しちゃって」

と笑ってみせたが辻氏は

「いいなあ」
と羨ましそうに笑っていたという。

浜田氏は

「日本語で歌うんだよね?」

と聞くと尾崎は「はい!」と応えれば

「そーだよな、やっぱ日本語がいいようん!」

と言うと続けて浜田氏は

「尾崎くん、今までいろいろあったと思うけど、とにかく歌うんだ、歌い続けることだよ。レコードを楽しみにしてるから」

と尾崎にエールをおくった。

余談ながらこの会食の席はCBSソニーの会社の経費で支払われ須藤氏が発起人になり「尾崎豊を励ます会」というものを行うことがそもそもの趣旨であったといわれており、浜田省吾氏の会報154号によると1000ドル以上の支払いになったという。