matagorou’s blog 尾崎豊 自由に生きられるかそして感動を得られるか

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糟谷銑司さんのビートチャイルド回顧

https://blog.excite.co.jp/kasuyablog/3064633/

BOOWYの所属事務所ユイ音楽工房のスタッフ、糟谷銑司さんのブログより

 

1987年の春のこと。

マザーエンタープライズの代表のF(あの福田信)から、話があるから原宿のRカフェに来てくれないかと連絡があり、その店に行くとFとハートランドの代表のH(春名氏)が待っていた。彼等が持ち出した話は、この夏(1987年)に熊本の阿蘇で5大ロックアーティストが出演する一大イベントをやるというもので、正式発表はしていないが、その大イベントは「ビートチャイルド」という仮称。

出演者は、ハウンドドッグ(マザー所属)担当・F、尾崎豊(マザー所属)担当・F、佐野元春ハートランド所属)担当・H、渡辺美里ハートランド所属)担当・H、BOOWY(ユイ所属)担当・糟谷、の5アーティストを予定。予定総入場者数は8万人という壮大な計画だった。(所属事務所は1987年当時)

 

BOOWYは、野外のロックイベントにはそんなに数多く出演はしていないが、出るイベント出るイベントで圧倒的な存在感を示し、野外イベントでのBOOWYの印象は強烈であった。ハウンドドッグも尾崎豊佐野元春渡辺美里も圧倒的な観客動員力とアルバムセールスを誇っている。

もし実現出来たなら、あの伝説の「拓郎・かぐや姫イン嬬恋」の5万人のイベントを越えて日本音楽史上最大のイベントになるのではないかと直感した僕は、その場でFとHにBOOWYの出演を約束した。

そして、FとHから要請された「プロデューサーとしてイベントに彼等と共同で企画参加する事」も引き受けることにした。

 

熊本県熊本市等の現地の行政機関、警察、消防署との話し合いはどんどん進み、九州をはじめ東京のメディアの協力も約束され、当日の開演時間、終演時間、出演者の順番も検討され、膨大な作業量ではあったが準備は順調に進んでいた5月のある日。

このイベントの映像収録をどうするかという案件が浮上してきた。FとHはこの企画の発案者であり、当然イベントの映像収録については両名によって当初から企画されていたものだったが、ここにきてイベント全体の具体的な形が見えてきたので、やっと映像企画を手をつけることができるようになったので、と切り出してきたのだった。

そんな企画があるとは話を聞いて初めて知った次第だったが、イベントを映像収録すること自体に問題はなかった。ただし、その収録された映像の将来の展開については大きな問題があった。考えた末、FにBOOWYは映像収録に参加できないと連絡した。

 

BOOWYは1987のこの年の夏のイベントには幾つか参加することになっていたが、どのイベントにも撮影許可は出していなかった。

他の出演アーティストからは「ビートチャイルド」の映像化の許可を得ていたから、イベント後に全国で展開される「ビートチャイルド・フィルム・コンサート」はBOOWY抜きで行われる事になった。「なんとかならんか」とFに再三要請されたが、残念ながらお断りをするしかなかった。

 

最近、Fと渋谷の小料理屋で顔を合わせたとき、「そういえば撮影するしないであの時は揉めたよなあ」「話し合いの最後は喧嘩口論にもなったな」「懐かしいな。今から考えれば解散は決まっていたんだよなあ。

すでにあの時は。一言言ってくれればよかったのに」「いやスマン。発表以前で言うことは出来なかったからな。

「まあ昔の話だ」「青かったな俺らも。仕事で怒鳴りあったもんだったなあ」「若かったな互いに」と、遠くを見るように酒を酌み交わした。

 

ベルリンでのレコーディングを終え、アルバムが発売され、ものすごい勢いで売れていた。9月から12月24日の渋谷公会堂までの全国ツアーも発表された。

チケットは9月の沖縄の那覇市民会館をのぞき発売と同時に完売し、1枚も手元に残っていなかった。ビートチャイルドのチケットもあっという間に8万枚が完売していた。

 

1987年8月21日。熊本入りし会場でリハーサルを終え市内のホテルに戻ると布袋からバーで一杯やりませんかと声がかかった。

そのバーで、これからどういう夢を持って生きていくんだろうと云う話になった。自分は、昔から夢に抱いていた日本脱出、どこでもいい。

世界に飛び出して行きたいという夢を語った。子供の頃から抱き続けてきた青臭い夢を語った。布袋は、将来はイギリスに渡りロンドンで音楽活動をしたいという夢を語った。

世界に通用するミュージシャンになりたいという夢を語った。その夜のバーの会話は忘れがたいものになった。

 

翌8月22日。ビートチャイルド当日。熊本県一帯に「大雨洪水雷雨注意報」が出されていた。夕方5時30分に幕を開けたと同時に激しい雨と風が襲いかかり、ライブが行われた12時間中9時間が集中豪雨という凄まじさだ
った。

 

夏の熊本とは云え阿蘇山麓は標高が高くズブ濡れになった観客の体温を一気に奪った。この辺りの雷は上から落ちない。低く垂れ下がった雲の合間を横に稲妻が走り抜ける。

その恐怖感も加わり会場内にいたお客さんが次々に倒れた。傾斜地を利用した会場客席はくるぶしまで埋まる泥田と化し、ステージ上では機材、楽器のトラブルが次から次へと発生していた。

悪天候の仲でライブは続けられ新たなる伝説を生み出すかのようだった。

ステージ裏に用意された楽屋では倒れて運ばれてきた人が手当を受けていて廊下まではみ出し足の踏み場もなかった。まるで野戦病院の様になっていた。

 

大音量と大声援がかき消されそうな土砂降りの雷雨の中。

会場をあとにバスは福岡へ向かった。雨で身体が芯から冷えていた。寝てしまおう。寝よう。休もう。と思ってもいつまでも眠気はこなかったが、いつしかうとうとしたようで気がつくとバスは福岡のホテルに到着していた。明け方の5時ころだった。

 

ホテルに入りシャワーを浴びるが芯から冷えた身体はいつまでも温まらなかった。

外はすでにしらじらと明るくなってきていた。カーテンを閉めベッドの横になる。

目をつぶるといきなり引き込まれるような眠りがやってきた。部屋の外で誰かが喋っている声がして目が覚めた。誰が喋っているんだろう?もう起きる時間になったのかな?とドアについている覗き穴から部屋の外を見ると廊下で人が喋っていた。

喋りながら廊下を行ったり来たりしているが、そのうち話し声が遠ざかり人も見えなくなった。さて。ベッドに戻ろうとして自分の身体が宙に浮いているのに気がついた。

ふわふわと浮いている。寝たままの姿で横になって浮いて漂っている。ドアを手でポンっと軽く押すと身体はゆっこりとドアから遠ざかった。遠ざかる途中で空調の吹き出し口から出る冷気に押され、またふわふわと漂っている。

下を見ると、ベッドに寝ている自分が見えた。天井をポンと押し身体をベッドの方に近づけようとするが、いつまでも宙を漂っている。どーなっちゃうんだろうか。

このまま自分と身体が離ればなれになってしまうのか。どうしたらベッドに戻れるのだろうか…

身体はいつまでも宙を浮いていたが気がつくとベッドの上で目が覚めた。妙な夢を見たもんだなあと思った。

出発時間になりロビーに集合すると、なにか問題があったようでスタッフが固まってわいのわいのやっていた。

どーしたんだと聞くと、航空券に手違いがあって朝から大変でしたが今片付きました。問題有りません。

朝から廊下で大声で確認し合ってましたので寝られなかったんじゃなかったですか?と言った。

廊下で声がしたのは夢じゃなかったんだ。

実際にあったことだった。宙に浮いていたのも実際にあったことなのか。

氷室や布袋にその事を話したが、きっと疲れてたんでしょう。

疲れてたからそんな夢を見たのじゃないですかと言われた。

夢か現かわからぬまま、その事は自分の胸にしまい込み、そしていつしか忘れた。

 

数年の後。霊的現象に詳しい人にその時の事を話す機会があった。まちがいなく幽体離脱で、肉体の極度の疲れと精神の極限状態が一緒になると、極まれに起こる現象だと聞いた。

 

ビートチャイルドに参加要請された時は、イベント全体の共同プロデューサーとしても参加要請も受けたのだが、映像収録の件で共同プロデューサーは降りていた。土砂降りの最悪天候の中のイベント(だからこそ伝説ではある)でただBOOWYの出演だけで会場を後にすることに、個人的にFやHに大きな借りが出来た様な気がしていた。

連中から仲間扱いはされないだろうなしばらくは…暮れに解散するBOOWYの各メンバーのソロ活動はもとより、自分自身の行き先もまったく決まっていなかった…果たして音楽業界に残るのだろうか…果たして音楽業界に残りたいとおもっているのか…残らないとすれば…生まれたばかりの子供を抱えてどんな仕事をやることになるのだろうか…人生の半ばで、いきなりこれから先の事がなにもかも見えてこない瞬間が訪れていたのだ。そして、大雨と暴風に一晩中さらされ身も心も疲れ果てていた。

 

「あなた。ふわふわと浮いている時とても気持ちが良かったんじゃないですか」「はい。そのとおりでした」「よかったですねえ。そのまま戻れない人もいるんですよ」「戻れなかったらどうなったんですか」「まあ。いいじゃありませんか。戻ったんですから」「………」

自分の音楽年史的にもあまりにもいろいろなことが起こった1987年だった。その狭間に幽体離脱を経験したのだ。

 

あれから20年。まったく違う人の人生があったかもしれないと最近思うようになった。ひょっとしてあのままふわふわと漂い続けたのかもしれない。若かったかみさんや生まれたばかりの子供と別れて…

そうだ。Fから声を掛けられたのはちょうど桜が咲き始めたこんな頃だったなあ…
(完)