1986年 7月中旬
歌うべきものをさがすために尾崎はNYにきていた。
しかしそのNYという街の中で彼が見たのは街にいるたくさんの人種から生まれる、怒りや哀しみ喜びなどであったという。
しかし尾崎はその中にある‘優しさ‘というものを歌っていければと考えていた。
1人で何の伝があるわけでもなくNYのマンハッタンで1人の20歳の男が生活を始めた。
英語力も乏しく、友人がいるわけでもない。
治安が良くもないこの街で暮らしていても何かにつけ込まれてブチ殺されても文句はいえなかったであろう。
新しい作品を作るために、歌うべきものをさがしにNYという大きな街で暮らしていながらも彼は1人で伝もなく友人もいない街で1人英語力も乏しく頼れる人もいないまま生活をしているがその中で感じたのは幼少期に母との離別の際にも感じた「孤独」であったと推測できる。
歌うべきものをさがしながらも話はレコーディングのことにうつっていく。
海外で録ろうという話は須藤氏との間に何度も出ていた話であったが、まだレコーディングはできない状態であったが話は進んでいく。