1990年 3月
準備の際に1人の男が制作に加わっている。
川添象郎氏である、企画製作会社シロプラニングの経営者でアメリカ音楽業界との仕事関係では密接な関係をもっていた川添氏は今回の尾崎が海外でのレコーディングをするという話にバックにアメリカのミュージシャンを起用することを提案していた。
川添氏は当時尾崎のことをあまり知らなかったと後年語っている。
以下氏の言葉
「ぼくは彼のことをよく知らなかったですよ。ただ80年代の日本なんて豊かになって管理社会になって、なんとなくデカダンでというだけで、文化的にはまったく不毛だったでしょう。
そこで世の中全部気に食わねえっていう調子でプロテストしたり、あがいたりする歌を歌ってもどうしようもないじゃないかって思いましたね。
彼、ギターのコードも単調でしょ、60年代のプロテストソングのつもりで、このままいったら必ず行き詰まりますよ。それならぼくが知っているミュージシャンをNYやLAから呼んでダイナミックなメロディーのね、もっと華のあるアルバムにたらどうかと思った。
ぼくが呼ぼうとしたのはシンセサイザーやマニアックに駆使するすごい連中だったからできると思ったんですよ」
と語っている。