matagorou’s blog 尾崎豊 自由に生きられるかそして感動を得られるか

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誰かのクラクション

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誰かのクラクションという尾崎のレギュラーラジオ番組が1984年から1985年にかけて東海ラジオで製作され放送されていた。
後に同名の小説や曲が誕生することと誰かの~という詩とクラクションという言葉は尾崎の詩にもよく出てくることであるが、この番組は尾崎が出演してトークをする番組ではなく死後に発表されたアルバムがある通り尾崎がSEを背景に詩を朗読する30分ほどの番組であり
 
尾崎豊のラジオパフォーマンス、誰かのクラクション」というナレーションで始まることが多かった。
 
この番組の製作を手がけた加藤与佐雄氏はこの当時音楽というものがおもしろくなく、ラジオ製作の部署替えを希望しようとしていた頃に尾崎のデビューアルバム「十七歳の地図」のはいったカセットテープを職場のデスクで見つけ自宅に帰って聞いたところこれでまた音楽と関われる仕事ができるということを思いつき、調べてみるとマザーの福田氏の元にいるということがわかり加藤氏は84年に行われた名古屋ハートランドでの尾崎のステージを見に行きひとつファンの姿にも感銘をうけ、尾崎と仕事したいと思ったようだ。
 
加藤氏は後に東京に転勤となりその後すぐに福田氏の元へ行ったようであるが尾崎は野音での骨折をした時期であった、尾崎は加藤氏の会社に会いに行き加藤氏が提案した普通にミュージシャンがやる番組「はい、どうも、こんにちは、 尾崎豊です」のような企画書と、加藤氏がやりたかった”作品として残すイメージを喚起するような番組”の企画書の2つを出した。
後者を採用するとなると時間もかなりかかるし、大変だろうは思ったが、尾崎がこれをやりたいといってくれて、それで始めたという。
加藤氏をもう一度仕事をしたいという気持ちにさせてくれた出来事であった。
 
この時加藤氏は36歳で後年尾崎とアイソトープを設立する鬼頭氏と同年齢である。
 
この番組は84年の10月から始まり、それに合わせてこの番組の番宣といったような番組が製作され関係者がインタビューに答えるとうものであった。
また尾崎は遅刻で有名であるがこの番組の収録は毎週水曜日の午前9時からであり、関係者と少し雑談をして裸電球ひとつのアナウンス室へ入り1時間ほどで収録に使う原稿を書き終えほぼ1日を使って収録が行われたという。
 
余談ながらこの仕事が終ると加藤氏と尾崎は疲れがふっきれたようによく飲みにいったようである。
加藤氏は尾崎のコンサートにもよく通い、NYにも訪ねたことがある。
 
後に須藤氏との対談においてあんなに刺激をうけた人はいなかったと語り残している。