ある編集者に尾崎は出会い仕事をする相手として彼を選んだ。
今日としては幻冬舎を興した男として有名である。
見城氏は尾崎を街角から流れる音楽で知ったと明かしている。
曲は「Scrambling Rock`n`Roll」と「シェリー」であったとか。
尾崎豊という青年が自らの詩と曲を書いていることを知った見城氏は尾崎と仕事がしたい、そう決心した。
すぐに事務所に連絡をとってみた。
この時ですでに活字での仕事が尾崎に舞い込んだのは7社目であったようだが、そんなことはこの見城氏には関係がなかった。
尾崎の曲を自宅で聴き、通勤、帰宅、往復時に聴き、編集部内でも流した。
やがて何か通じたのか事務所のMOTHERは見城氏と尾崎を会わせることとした。
彼は尾崎との対面の場に六本木にある洋食屋「和田門」に席を拵えた。 (現在この店はなくなっているようだ)
見城氏の粋な計らいでか尾崎はまだ19歳と若く、美味い肉を食わせてやろうと考えたようだが、会社の経費では落とせず、見城氏が考え、作り出した場であったということであろう。
見城氏は尾崎を刺激するために饒舌になった、それに尾崎も応えたことであろう。
詩について曲について突っ込んだ話をしたという。
店を出ると雨が降っていた、そこで尾崎は見城氏のために道路へ出てタクシーを止めてくれた。
これが見城氏と尾崎との付き合いの始まりであったという。
最終的に尾崎は他の会社をすっ飛ばして、見城氏と仕事をし、初の自著「誰かのクラクション」を出版、約束は20歳の誕生日になる前ということも果たされるのだが少しこれは先の話だ。