彼とは前回の記事で友人のことを指しているということを書いた。
しかし少なくともそれは友人のことを含んだことを指すようにも筆者は考えている。
彼というものが指すものは「彼」と定義された尾崎の友人ともう1人、神ではないだろうかいう話を尾崎は残している。
彼とは神のことである、そして自分のこともであると尾崎は述べている。
贖罪意識もあったであろうが、彼は最後にこの曲で歌っているように自分が混乱していく中で祈れば救われるというような思いがあったかもしれない。
ちなみにこの曲には何度も同じ言葉を反復させるような反響エコーをかけているが、これは尾崎の希望でもあった。
自意識みたいなものが混濁していて歌としては他と理解し辛いと言っているのはディレクターの須藤氏であるが、これには筆者も力が及ばないのが真実であまり理解し辛い、しかし作った当事者である尾崎がこのとき19歳であったときのことを考えれば理解したい気持ちでいっぱいでもある。
余談ながら須藤氏はあらゆるテイクに「OK」「NO」と意見を出せる立場の人間でありこの曲に関して「NO」と答えたようであったが結局世に出てしまった、そのことだけはなんとも悔しかったと述べている。
「NO」と言っても尾崎はこの曲の詩を書き直さなかっただけに須藤氏が音を上げてギブアップしてrしまったのはこの曲だけのようである。