1987年 5月
「武道館でコンサートをやりたい」
と尾崎がこの時期に言ったのかどうかは定かではない。
しかしこの時代のミュージシャンのあらゆる到達点として日本武道館というステージがあった。
ライブハウスからホールコンサート、そして武道館という流れは彼らの教科書のようなものでもある。
尾崎は十代の活動から早く売れてしまったと見るのが妥当であろう。
デビュー1年半でコンサートのキャパシティは倍にも膨れ上がりライブの本数も増えていく、売れていくということを生で体験するのはこのことではないかと推測できる。
2000人ほどのホールライブから一気に10倍近いキャパを誇る大阪球場でスタジアムライブを行い
26000人を動員したのが19歳の夏だった。
そこから代々木体育館を2日間で満員、これは早すぎる大きな成功であった。
そこから活動を休止1986年1月博多でのライブ以来ツアー初日までの空白を数えれば545日になる。
十代での動員数を見ても日本武道館のキャパは詰め込んでも10000人。
しかし帰国してからの凱旋ツアーで日本武道館を満員にするという構想は彼を長くプロデュースしてきた福田氏にあったのかもしれない。
ツアーをブッキング中新しいツアーはタイトルも決まらないまま7月から開始で全国津々浦々を回る。
ライブ本数は50本、大きな会場やイベント出演を交えながらも最終日は日本武道館を4日間押さえた。
新しい尾崎をファンに披露するためのツアーになるはずであったこのツアーは計画されたが、残念ながら尾崎のコンディションはあまり良いものではなくツアーは始まろうとしていた。