matagorou’s blog 尾崎豊 自由に生きられるかそして感動を得られるか

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キヨシくんのこと

 
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ある男とは小川清史氏のことで後のレッド・ウォーリアーズのベーシストとして活躍する男である。
彼は尾崎のマネージャー兼ローディーであり、デビューライブのルイードからこれまでに追ってきたツアーの最終地札幌まで同行した。
 
彼はミュージシャンを目指す卵であり、プノンペンというアマチュアバンドに参加するのと同時にプロの世界を知ろうと18歳でこの業界に飛び込んだ。
ストリート・ライダーズ、ハウンドドッグのローディーを努めている時期が83年の夏頃であったという。
 
この85年2月以前に彼はバンド活動を本格化させるためにこのローディーという仕事を辞めるという話をプロダクションの社長である福田氏に相談していたようであるがその話の際に福田氏はあるカセットテープを渡し、カセットテープには十七歳の地図という曲がはいってたという。
 
書き忘れているが小川清史氏ことキヨシは尾崎より歳は1歳上になる。(以下キヨシくんは尾崎からの愛称以下キヨシとよぼう)
 
この十七歳の地図という曲が印象付けられ一種尾崎への興味が湧いたという。
直接尾崎に会ったのはルイードが初めてであった、ハウンドドッグのツアーも終わり自分のバンドも始動を始めようとしている時期で84年の3月であった。
 
このルイードにスタッフとして参加する際には一つの逸話があり彼はバンドを始動させたばかりであったが当日のギャラと福田氏の願いで当日彼はルイードのスタッフとして参加した。
彼はBow!という尾崎の曲を気に入っていた。
 
その1回目の時、初めて尾崎に会った。
 
「思ってたよりもフツーの奴・・・」
 
けれど、言葉は、あいさつしか交わせなかった。
 
だから、つい、二度目のライブもこうして手伝いってしまった。
尾崎は、少しハミングしながら、心地良さそうにピアノをかなでていたという。
キヨシは、声をかけていいものかどうか迷っていた。その時、一瞬、尾崎の視線とキヨシの視線が交差し。キヨシは、自分でも不思議なくらい
自然に尾崎に近づいて行った。
 
「俺さ、その歌、好きなんだよね」 すると、すぐに、「エッ、ホント?」 尾崎の、子供のように無邪気な笑顔
が返ってきた。 
「俺も、中退なんだよね・・・・・」 
 
「エーッ!?」
 尾崎は目を見開いて驚いた。 
「でも、俺オザキには勝ってるぜ。だって俺、専門学校も中退だもん」 
 
「マジィー!? アハハッ マケタッ!」
 
ふたりは、その日を堺に、アーティストとローディーという関係を超え、仕事以外では18歳と19歳の青年であったに過ぎないかもしれない。

結局、キヨシは、尾崎のたっての願いもあって、ツアーを手伝うことになってしまった。
バンドのメンバーは、ちょっとだけ口をとんがらせた。が、マザーの福田の好意で、バンドの使う機材がコンテストの時などに借りられるのはありがたかった。
福田氏は、何かにつけ、キヨシに協力的だったという。
後になって考えてみると、アメを与えて、いつかはスタッフに引き抜こうとしていたからやさしかったんだ、とも考えれる。
"コノ、タヌキ親父め!" 
 
と少し青年である時期の男は思っていたという。
「キヨシ、やめんなよ」
 
ローディーをやめるといった夜、尾崎は、悲しそうな目をして引き止めてくれた。 
 
「でも、俺、バンドあるから」 
 
尾崎を近くでずっと見続けていきたい気持ちと、自分と尾崎とは、たったひとつしか違わないんだという意地だけが交錯する。

"自由でなきゃ意味がないといったのはオザキ、おまえだろ"

「俺、プロになります・・・・・」 
 
「先輩、頑張ってください。応援に行きます」 
たったひとりの卒業式で大見栄切ったっけ。'85年2月7日。札幌で尾崎のツアーは終了した。
「今日でキヨシがローディーをやめます。お疲れさまと、これからの新しい門出を祝ってカンパイ!」 打ち上げのニギヤカさとは裏腹に、キヨシの心はスキ間風だらけだった。
 
なおこのキヨシ氏は父健一氏の回想にも出てきてコーヒーを出したなど尾崎を自宅まで送ってくれたので夕食をご馳走したなど話がよく残っている。以前書いた札幌で酔い潰された尾崎をホテルまで運んだ人間も彼である。
 
話は遡るがもう一つの話として彼が回想しているのが
 
博多って、駅の周辺は夜になると閑散としてて、中洲に行かなきゃダメだったんだよね。
それで仕方なくホテルに戻ってきたら、駐車場の俺らのボロボロのトラックの隣に、浜田省吾のでっかい11t車が止まってたんだ。
なんかそれを見てふたりとも溜め息ついてさ、アイツが、俺達もこんなでっかいトラックでツアーできるようになるのかな、って言ったんだ。
 
で、俺も、大丈夫、きっとなれるよ、って言って、ふたりで青春してたなぁ。飲みに行って、ヘベレケになっても、最後は、いつも、青春してたような気がするな」
と彼らは少年として青年としての付き合いであったはずである。