思いのほか最初がプレスされた数が少なく、店で自分のレコードを見つけれなかった尾崎が事務所とレコード会社に電話をした話は有名であろう。
それからしばらくして、この軌跡では詳しく触れていないが尾崎は無期停学が明けて復学が決まった際に「卒業」ではなく「留年」が決まり、またあらゆるいきさつがあり、退学を決意したのであるがここにその経緯を書くと長くなるので割愛させていただく。
退学後にアーティスト業に精を出し始め、バックバンドにエイプリルバンドというアマチュアバンドを付けて初めてステージに立った「千葉マザース」
そしてその次が「BOW」という神奈川県藤沢市にあるライブハウスであった。
そしてその次が「BOW」という神奈川県藤沢市にあるライブハウスであった。
この2回のライブは非公式ながら3月15日に予定されていた新宿ルイードでのデビューライブを銘打たれた公演の練習のような場数踏みのライブで告知もされておらず、立場もアマチュアバンドの前座という形であった。
余談ながら、上記ライブの前後に河口湖付近でメンバーと尾崎を含めた合宿練習があったが、この軌跡という物語では省いてしまっている。
そして3月にはいると尾崎は風邪をひいてしまい、連日仕事を休んだりとヘントウセン化膿のために喉を痛めるなどデビューライブを目の前に控えてコンディションは最悪であったが、連日注射を打って体調を回復、ライブ前日の14日には12時から午前2時までルイードにてリハーサルを行い、3時帰宅して就寝という病み上がりには信じられない有様であったが、リハーサルは調子良好であり、翌日の15日「新宿ルイード」では母、兄、尾崎の中学、高校時代の友人に加えて吉川晃司や関係者でごった返し、奇しくも高校の卒業式と同じ日にデビューライブを行い尾崎は自分の卒業式をこのライブで行い、自己完結を求めたのでないだろうか?
余談ながら尾崎はこのルイードでのライブ後の打ち上げに参加して翌朝の4時に帰宅し、軽食をとってからの就寝であった。
先にも書いたとおりつい最近まで体調を崩していた男の所業であるとは信じられないところでもある。