matagorou’s blog 尾崎豊 自由に生きられるかそして感動を得られるか

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半田で

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1987年 3月26日 半田市

半田での話続く。

東雲橋を渡ったところには、市役所や消防署などがあった。
それにこの3人がこの晩宿泊するばしょとなっている勤労福祉会館等の公共施設の中心地がこの辺りであったという。

戦時中のこの地帯には中島飛行機という1917年から1945年まで存在した航空会社の大工場があり
中島飛行機はその高い技術性で、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであったという。

1945年7月24日、午前10時30分米軍による中島飛行機代工場を目標として行われた半田空襲は
米軍機B29、78機が襲来し250キロ爆弾2000個あまりを投下したという。

話は脇道へそれ続けているが、この大工場は総勢3万人の大規模工場であり半田氏の人口は倍増するほどえあったというが、空襲した際に焼け落ちたこの工場で多くの勤労女子学生が亡くなったという。

余談が余談をよぶがこの中島飛行場になる前には3000人の女工を擁する東洋紡績の大工場であり。
健一氏の両親は7人の子供のうちに末っ子の健一氏と上の兄を除きここに働き子育ての大方を完了させたという。

そして健一氏が生まれた社宅の跡地に勤労福祉会館が建っていた。
勤労福祉会館に着くと幸い宿泊客は少なくがらんとしており、浴場で汗を流すと静かな会館の食堂で夕食をとった。