1988年
尾崎のLIVE COREは多くの関係者も当然見ておりそんなライターたちの記事を載せてみる。
尾崎自身が出したこたえ、それはステージに立ってうたうことだった
ドラマチック・・・・・。
そんな使い古された言葉が、この日くらいなまなましかったコンサートはなかっただろう。
演出されたドラマではない。何人ものスタッフが、時間と金をかけてひねりだして作り上げたドラマではない。
一人のアーティストが、一人の青年が自分自身の復権を賭けた
コンサートでもあったのだから、それは、どんな作り物のドラマも及びもつかないもので
あったのは当然のことかもしれない。
88年9月12日、東京ドーム。
いうまでもなく、尾崎豊が、警察の厄介になってからの最初のコンサートだった。このたぐいまれな創作力と表現力と、人一倍豊な感受性を持ったアーティストの、そんな"つまづき"をマスコミは"堕ちた偶像"だの "挫折したカリスマ"だの" 苦悩する教祖"だのと、面白半分の目を向けていた。
この日のコンサートを"早すぎる" と批判する声もあった。道はふたつあったはずだ。ひとつは "悪い事をしました" と、ひたすら "自粛" "自重" "謹慎"の道を選ぶ事。
もうひとつは、裁判で出た結果を、できるだけ早く本人の口から世の中に伝えること。彼が選んだのは後者だった。
そして、この日のコンサートは、彼の気持ちを、自分自身の表現の手段である音楽を通して行う場でもあったのだから。仮にコンサートがなかったら、と、今考えてみる。
きっと、彼は、"自粛" "自重" のアリ地獄の中を永遠に十字架を背負ったままさまよわざるをえなかったかもしれない。
日本のマスコミや、音楽、芸能ジャーナリズムが"ヨロシクおねがいしまーす" と "オハヨウゴザイマース"の上に成り立ってることには、今も昔もかわりがない。
そんな"馴れ合い"の外にいようとする人間に対しての"みせしめ"は、決して生半可ではない。"復権" の機会を逸したばかりに、しなくてもいい"自粛" を受け入れたばかりに、アーティスト生命を絶たれた前例も少なくない。
尾崎はステージに立った。制作が中断されていたアルバムを完成させ、その中の曲を歌うと言う形で、"自粛"の袋小路を突き破ってみせた。
1曲目の「COLD WIND」から始まり、2回目のアンコールの「僕が僕であるために」まで全26曲。前半の硬さは、自分の置かれた状況を自覚していたことの緊張感の結果だったのだろう。
ステージに立つこと自体丸一年近くぶりになっていたのだし。でも、途中から、身体が反応するのが見てとれた。一人のアーティストが、ステージでどう自分をとり戻していくのか。そんなギリギリのドラマを見ることもできた。
3時間のコンサート。尾崎は、ほとんど話をせずに歌った。
"自分だけが傷ついていると思っていた" と言った。
内省的で、深みと静けさを漂わせた、くもりのない23才の尾崎がいた。
ライター 田家秀樹氏・・