matagorou’s blog 尾崎豊 自由に生きられるかそして感動を得られるか

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2014-04-01から1ヶ月間の記事一覧

緊張

1988年 11月23日 大磯 さて窯入れ式といっても格別に神事があるわけでもなく工房の中で一番広い業場テーブルが並べられ白いクロスを覆った上に郷土料理が思い皆席についた。 又造氏の簡単な挨拶のあと哲也氏も短く挨拶し乾杯という流れになった。 豊は又造氏…

1988年 11月23日 大磯 尾崎一家が着いたころには既に多くの人で応接室が賑わっていたという。 この日のために招かれた横浜の老舗蕎麦屋の主人が何人かの職人を連れて得意の手打ち蕎麦の腕前を披露しておりその光景を彼らも見たのであろう。 準備中に哲也氏は…

大磯着

1988年 11月23日 大磯 14時前に大磯に到着した尾崎一家。 窯場は国道1号線に間近い谷間にあり、建物の内部は作業場と応接室に分かれている。 この時間でも既に多くの来客があったという。 背後には哲也氏の父が新しくアトリエを建てる場所として古い別荘を…

大磯

1988年 11月23日 昼前11時過ぎに家を出た尾崎一家・・ 加山哲也氏の窯入れ式出席のために大磯に向かうのである。 車の運転は息子豊・・ 余談ながら加山哲也氏とは高名な日本画の大家加山又造氏の長男であり、父健一氏の姪であり豊からみればいとこの英利子…

のい

休みでござる 天気は良い晴れである 今週は土日に岡村ちゃんのライブにいく 楽しみやね 板の書き込みで帰りの飛行機が岡村ちゃんと一緒だったという人がいたけど 羨ましいな

旅行にいこう?

1988年 11月 尾崎の中では次の活動の場所が決まるかという最中に父健一氏はこの移籍という一種泥臭い俗事から離れさせて心身をリフレッシュさせてやりたいと思ったという。 健一氏の言葉を借りれば 「枯渇した感性の大切な充電期間にしてやりたかった」 とい…

LIVE CORE 評論2

1988年 もう1本載せときます たった1回のライブでアーティストを判断してしまうのは非常に危険だが、尾崎豊はその時期その時期の”たった1回のライブ”で常に彼自身をアピールしてきた。 初期のルイード、青年館、骨折の野音、大阪球場、ニューヨークに旅立つ…

LIVE CORE 評論

1988年 尾崎のLIVE COREは多くの関係者も当然見ておりそんなライターたちの記事を載せてみる。 尾崎自身が出したこたえ、それはステージに立ってうたうことだった ドラマチック・・・・・。 そんな使い古された言葉が、この日くらいなまなましかったコン…

生きている限り

1988年 10月 尾崎にとっては周りに迷惑をかけながらも前進してきた88年も残り少なくなってきた・・ 裁判の際に「生きている限り、面倒はみます」 と言ってくれたマザー、福田氏とも別れ尾崎は1人での道を歩み始めた。 音楽活動をしたくても契約の都合上、…

病院

1988年 10月 尾崎は病床にある須藤氏を見舞いにいっていた これより前にも見舞ったことがあったが、尾崎は絵を書く道具を一式・・・スケッチブックや画集も携えてあったという。 尾崎は言う 「前に内臓を悪くしたときに、ひどく退屈だったから絵の道具があっ…

雨か

明日から雨みたい なんで休みの日に雨なんやろか

再再

1988年 9月 ソニーに戻って須藤晃氏と一緒にまた作品を作りたい・・というのがこの頃の尾崎の考えであった 古巣のソニーには過去に3枚のアルバムをともに作った須藤氏がいたからだ。 須藤氏にしてみれば尾崎が移籍をしたことによりあくまでプロデューサーは…

こいお

こいよーー銃なんか捨ててかかってこい

再び

1988年 9月下旬 マザーとの契約が残っているなかソニーへの回帰を目指した尾崎は徹底抗戦の準備をしている。 そのためマザーの契約の不備をついた書類を作成にうつる主に86年のNY行きから今に至るまでのことを明確に書く必要があった。 音楽活動をした…

辞める

1988年 9月15日 尾崎はマザーをやめた この前後に自殺未遂をしたということが、後年のツアーパンフレットに書かれている。 音楽活動を続けられるかということについても不安からきたのやもしれない。 ちなみにマザーとの契約はまだ残っていたが尾崎は以前か…

6年

今日でブログを始めて6年 はやいものや アホブログはまだまだ続く